映画「帝一の國」
演繹的な生き方とは
原作は読んでないのですが、映画版。
主人公赤場帝一は、将来は内閣総理大臣となり自分の国を作るという確固たる夢がある。
舞台となる海帝高校は、全国トップクラスの男子校。生徒会長になることができれば、政界の有力派閥に入ることができるため、将来の出世は確約される。
生徒会長になるためには、まずはクラス長になり評議会のメンバーになる。そして、次年度の生徒会長を決める生徒会長選においてどの先輩の派閥につくか。これが自分自身が生徒会長きなれるかどうかの、大きな鍵になる。
生徒会長の座を虎視眈々と狙うライバル達との抗争、生徒会長選挙への策略がテンポよく展開する。
帝一の生き方は、超演繹的。
つまり人生を夢から逆算してるということ。
目標のための手段を割り出して、実行。
つまり、何か現状から手探りで目標や課題を探していく帰納的な生き方ではなく、確固たるゴールに向かって努力する。 理にかなっているし無駄がない。
国家政治も会社経営も、根本はこの方法。
ただ、この生き方には1つ欠点がある。
信じて突き進んでいたその目標に疑問を持ったり、揺らいだりした時の解決策がない、ということ。
作中、帝一は彼女の美美子に、「自分の国を作ってどうするの?」と問われる。帝一は、うまく答えることができずに、目を背ける。(のちに明らかにはなるが)
何のために?が揺らぐと、
何に向かっているのか?
目指していたものが何なのか?
分からなくなってしまう。
映画の中盤では自分の人生を導き、絶対的な存在であった父が賄賂疑惑で留置される。(これはライバルの奸計だが)
この一件で、生徒会長選で自分の派閥の勝利に息巻いていた帝一は完全にやる気を無くす。
それまで、生徒会長になるという目標を与え、それを全力でサポートしてきた父の逮捕。
絶対的な存在が崩壊。帝一は生徒会長選直前であるにもかかわらず、家で抜け殻のようになってしまいます。
父と留置所で対面した帝一は、
そもそもどうして自分の国を作りたかったのか?
を、語り出す。(とても意外な理由です)
「何のために?」を見失わないこと。
映画ではお決まりのパターンだけど、これがテーマ。
この映画、政治の縮図だなって思うのです。
・イメージ戦略が重要
・賄賂が身を滅ぼす
・有利な派閥に属するという絶対条件
・最終的に人望が勝利
国家政治にも言えるキーポイントが散りばめられています。
この映画と実際の国家政治に共通する最大のポイントが、
この「目標の再確認の必要性」かもしれない。
政治も、本来は演繹的なものだけど、
もっと、何のための政治なのか?を問いただせよ、という皮肉がこめられてるのかも。
女性に消費されるマッチョな世界観
『帝一の國』には、驚くほどに女性登場人物が出てきません。
いや、出ては来るんだけど、活躍しません。
帝一の母と、彼女の美美子くらい。
帝一の母は、元ピアニスト。
その影響で帝一にはピアノの天才的な才能か有りますが、
父は「ピアノのせいでなよなよしたやつになった」と、男性的な価値観を押し付けて批判します。最終的に帝一は、ピアノを葬り去って生徒会長になることに邁進するのです。
美美子に関しても、付き合うことになったきっかけは描かれていないものの、
彼女は帝一のピアノを聞きたい、と何度も言いますが、帝一は聞き入れず美美子には、とにかく生徒会長選への意気込みを一方的に語る、というようなシーンが大半を占めます。(ちゃんと会いに行っているところが可愛らしいですが)
つまり、この映画は超男性優位的でセクシュアリティの二極化が恐ろしく進んでいる内容。
ただ面白いなと思うのは、
「男子校の生徒会長選挙」
を、
「新進気鋭の若手俳優たちが様々なキャラ揃いで演じる」
こと。
ここまでマッチョな世界観の映画が、
演者だけで言えば完全にターゲットが女性。
これが、なんかすごく面白いなと思うのです。