阿久悠「無名時代」
集英社から新装で出版された、
阿久悠の自伝的小説「無名時代」。
時代を読み取る
戦後の好景気が終わった日本。
今で言う就活中、の文学部生、芥洋介。
文学部という実学から乖離した学問を専攻。
少しでも関連性がある業界の出版やマスコミを志望するも、高倍率で推薦ももらえない。
最後の望みを賭けた広告業界の入社試験。
文学部の「就活」に対する悲哀って、昔も今も変わらないんだな。
入社試験の課題は、「週刊朝日、アサヒ芸能、女性自身の企画を考えよ」
これをスイスイと片付けていく主人公の姿に阿久悠の時代感覚への鋭さがありありとわかる。
時代を読み取って、コンテンツとしての面白さ、に結びつける思考過程、プロセス。
はじめに、時代に沿ったマテリアル、時事問題を並べて、
読み物として面白くするために流行の映画や曲のタイトルとかけあわせていくっていうセンスと敏感さ。
90年代生まれなので、
なんだっけ、あの犬のイラスト描く人が阿久悠を演じてた自伝ドラマと、
こないだの24時間テレビの亀梨くんのドラマと、彼の作詞曲でしか知らない。
前者のドラマの中で、ピンクレディの「渚のシンドバッド」作詞シーンで、「ディズニーランドみたいなワクワク感を取り入れたい。」
という台詞が印象的だった。
「ここかと思えば、またまたあちら浮気な人ね」の、パラダイス感。
縦横無尽にビーチでナンパする男と、彼に翻弄される女(局自体はリズミカルで明るい)を通してカラフルさと楽しみ、ドキドキがぎゅっと凝縮された光景が浮かんでくる。
ディズニーランドの色とりどりのアトラクション(当時のものは知らないが)、アメリカ資本主義的な娯楽の輸入品がぎゅっと凝縮された感じが「渚のシンドバッド」と共通してある気がする。
(渚のシンドバッドとディズニーの話は、あくまでもドラマの台詞だけで実話じゃないのかもしれない)
その時代の、
いくつかの事物、マテリアルを結びつけて
同一の現象を見出す。
それを面白く言語化する。
そのセンスがありありと伝わってくる。
女子大生のとの不安定な同棲生活が読んでいてつらい
私が女性性だからかもしれない。
主人公と交際している女子大生、鳩村圭子の描写が多くある。
読んでいてなんだか、つらくて、じれったく思うのは、
彼女が主人公に大切にされているんだか、されていないんだから、いまいち、というかさっぱり分からない。
彼女を邪険に扱うのに、振られれば落ち込む。
彼女が再び姿を現しても、さして喜ばない。
だけど一緒に温泉旅行に行ったり、看病してくれたら愛おしく思うのに、
彼女の親に会うのは拒否。
しかも、結婚しないと言い切る。
不安定過ぎる関係性が読んでいてつらいので、何か不安定な関係を抱えている人には、この小説はおすすめしない。
彼女は「気まぐれでエキセントリック」と表現されているが、お前の方が気まぐれだろうが、と思ってしまう。
もはや、
主人公が気まぐれなので、それに振り回されまいと彼女が余計情緒不安定さを持ってわざと気まぐれに振舞っているのではないかと思いたくなる。
仕事で大胆さやセンスを発揮してるんだから
プライベートは堅くてもよくないか??
と、思ってしまう。
余計なお世話だけど。
婚前の同棲生活が、社会に受容されたのがこの辺りの時期だからなのか、
強調してその不安定さを書いたのかもだけど、
読んでいて心地の良いものじゃなかった。
阿久悠はサディスティックな女性が好きだったのか
女に振り回されるのが好きだったのではないか?
好き、とまでいかなくても、願望として心の中にあったのではないか?
あんまり創作物と作家自身の性格を結びつけるのは良くないけれども、なんとなくそう思う。
和田アキ子の「笑って許して」でも、
沢田研二の「勝手にしやがれ」でも。(24時間テレビで亀梨くんが歌ってたのカッコよかった)
ピンクレディっていう存在自体がそれを象徴するのかも。
そして、この小説に登場する女性達も。
弱さ、をあまり見せない。
「雨の慕情」でも、雨の情景と失恋の歌なのに「わたしのいい人連れてこい」
って、あまり弱さがない。
小狡くて賢い、でも気まぐれ、みたいな男性を振り回す強さをもった女性像。それも輸入された女性像なのかもしれないが。
百恵ちゃんの曲(絶体絶命だったりプレイバックpart2だったり)にも女性の芯の強さはあるが、
サウスポーやUFOのような小狡さ、小悪魔性には乏しい気がする。
その女性像自体が時代性なのか、
阿久悠の願望だったのかは
ちょっと分からない。